遺跡・地点詳細

しおざきじょうあと

塩崎城跡

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遺跡番号
E-208 
種別
城館跡 
時代
中世 
地区
篠ノ井 
所在
篠ノ井塩崎 (長谷) 
調査年度
1988 
報告書
鶴前遺跡・塩崎城跡
地図

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解説
 塩崎城は、長谷寺の裏山にある山城です。千曲川両岸には千曲川に向かい張り出す幾筋もの尾根があり、その先端には多くの山城が分布しています。塩崎城もその中の一つであり、善光寺平の南の入り口に位置する重要な拠点でもありました。
 塩崎城は、尾根頂部に主郭(1)があり、そこから東の尾根上に階段状の曲輪が続く大規模な城です。主郭の西には城内最高地点の曲輪(2)とその西に裏山から続く尾根筋を断つ二重の大堀切(e)がみられます。東の階段状の曲輪の先端には虎口(b)が見られます。主郭の北側の石塁(c)や北側斜面に多く見られる竪堀・横堀(f)は、特に城の北側、鳥坂峠方面を意識した防御となっているようにみられます。城の北側の尾根上には、見山砦があり、塩崎城と一体で狼煙や見張りなどの機能を果たしていたと考えられています。
 応永7年(1400)、信濃守護職小笠原長秀と、村上満信を盟主とする国人一揆との間で行われた大塔合戦の中で小笠原長秀が籠城した城として塩崎城の名が見られます。その頃塩崎を領していた小笠原氏一族の赤沢氏でしたが、没落後塩崎城南の小坂城主桑原氏の名前が見られるようになり、それ以後桑原氏が塩崎氏として塩崎を治めました。戦国時代の天文22年(1533)武田氏による村上氏攻略戦の中で塩崎氏は千曲川対岸の屋代氏とともに村上方から武田方に寝返り、その後に始まる川中島の戦いの中で武田側の最前線の城として重要視されました。永禄7年(1564)第5回川中島の戦いでは、武田信玄の本陣が塩崎におかれました。現在確認できる遺構はこの時期に改修されたものと考えられています。文禄3年(1594)北信を支配していた上杉氏の資料の中に塩崎城の名前が確認できますが、上杉氏の会津移封以後見られなくなります。
 昭和63年(1988)、送電用鉄塔建設に伴い塩崎城跡に隣接する地点の発掘調査が行われました。テラス状の平坦面が確認されましたが、塩崎城に関連した遺構は明確に確認できませんでした。 

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