遺跡・地点詳細

まつしろじょうあと

松代城跡

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遺跡番号
F-202 
種別
城館跡 
時代
中世・近世 
地区
松代 
所在
松代町松代(殿町)殿町城跡 
調査年度
1992~1994
1994
2000~2001
2001
2003~2004
2008
2012 
報告書
松代城跡
松代城跡(3)
松代城跡Ⅱ
参考資料
発掘された長野2007
地図

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解説
 松代城は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が争った「川中島の戦い」(1553~64)の際に、武田方の最前線基地として築かれた「海津城」がその始まりといわれており、永禄3年(1560)頃に普請が完了したと伝えられています。その後海津城は、織豊期の動乱によって織田家や上杉家の支配下となりますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、徳川幕府の命により森忠政が入り「待城」、その後「松城」と改名されました。元和8年(1622)には真田信之が4万石加増で上田から移封され、以後約250年の間真田家の居城となりました。正徳元年(1711)三代藩主幸道のとき幕命により「松代城」と改名されましたが、藩の公文書以外では「海津城」という記載も確認されていますので、俗称として併用されていたようです。明治5年(1872)の廃城以降は、城内の建物や土地の払い下げが行われ、石垣は壊され、堀は埋め戻され、跡地のほとんどが桑畑や麦畑になりました。お城として荒廃してしまった姿を憂慮した真田家が明治19年(1886)に本丸跡地を購入して当時の松代町に寄附し、その後松代城本丸跡遊園地として一般に開放されました。昭和39年(1964)に松代城の本丸部分が県の史跡になり、さらに昭和56年(1981)には本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国の史跡に指定されました。長野市では、平成7年度から平成16年度までの10年間保存整備事業を実施して、発掘調査や古文書等の文献調査によって太鼓門や北不明門を復元し、本丸の石垣を修復し、土塁・堀を再現して、江戸後半期の松代城の姿がよみがえりました。
埋蔵文化財の発掘調査としては、これまでに史跡整備に伴う遺構確認調査や、開発行為に伴う緊急調査が実施されています。昭和60年度から開始した発掘調査の成果により、松代城跡は千曲川を自然の要害として造られた平城で、本丸・二の丸を自然堤防上に築き、外堀は後背湿地に開削するなど、自然地形を巧みに利用していることがわかってきました。造られた当初の海津城は、砦のような簡易な施設であったと想像されますが、次第に土塁から石垣に築造し直され、二の丸や三の丸の整備も行われ、梯郭式の縄張りが整えられたようです。本丸、二の丸、花の丸からは御殿建物の礎石や井戸跡を確認し、複数回にわたる火災の痕跡も確認されました。本丸石垣上には、幕末まで二重の櫓が三方の隅に建てられており、絵図や発掘調査によってその痕跡を確認しています。なお本丸北西の戌亥隅櫓台は、天守台として築かれた可能性もありますが、高楼の天守の存在を裏付ける発掘調査成果は確認できず古文書等の史料も見つかっていません。また、江戸時代後期になると、本丸北側に隣接していた千曲川の流路をより北方に変更して、帯状の曲輪や新堀・百間堀を拡張整備したことがわかっています。
史跡指定地外においても、平成5年(1993)に神田川改修事業に伴い桜の馬場と百間堀を、平成6年(1994)には竹風堂松代店新築工事に伴い大御門跡を、平成20年(2008)には下水道工事に伴い花の丸御殿跡を調査し、それぞれ関連する遺構を確認しています。

 

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