文化財について

目次

◆文化財と...?
 
◆文化財の種類と保護
 
◆長野市の成り立ちと歴史
 
◆なぜ文化財を守るのか?

 

◆文化財とは…?

 文化財とは、日本の長い歴史のなかで生まれ、育まれ、今日まで守り伝えられてきた、いわゆる文化を構成するさまざまな要素の「形」のことであり、それは国民共有の貴重な財産です。「形」といっても、いろいろな材質や、また目に見えないものもあり、人間の営みに関する、あらゆることがらを表します。

 一般的には、お寺や神社などの建物、仏像等の彫刻、絵画や古文書、伝統芸能や民俗行事、遺跡や名所、貴重な動物や植物などを指す場合が多いです。

 

 文化財保護法(昭和25年5月30日法律第214号)では、「文化財」を、次のように定めています。

 

◆文化財の種類と保護

 文化財は、日本の歴史や文化などの正しい理解のために欠くことのできないものであると同時に、将来の文化の向上発展の基礎となるものです。そのため、国では文化財保護法、県、市においてはそれぞれ文化財保護条例などを定めています。国や自治体ではこれらの法令に基づき、文化財を指定・選択・選定・登録することにより、文化財の保護を図っています。

 長野市内には、以下の指定文化財及び登録文化財があります。

 

   ★長野市の文化財★(←クリックすると別ウィンドウで長野市ホームページ「長野市の文化財」のページが開きます。) 
   平成29年4月1日現在
       

 

 埋蔵文化財とは、土地に埋蔵されている文化財(主に遺跡や出土品など)のことです。埋蔵文化財の存在が知られている土地(周知の埋蔵文化財包蔵地)は、日本全国で約46万箇所あり、長野市内には1101箇所(H29.3.31現在)の遺跡があります。

 

◆長野市の成り立ちと歴史

【地形と気候】

長野盆地 長野県の県庁所在地である長野市は、県の北部にあり、総面積834.81㎢、人口380,473人の地方中核都市(平成29年4月1日現在)です。地形および地質的には、中央部の長野盆地平野部にあたる通称善光寺平と、西側の西部山地(通称西山)、東側の東部山地(河東山地)に大別されています。中央部の善光寺平は長野市を中心とする細長い盆地で、長さ約40㎞、最大幅約10㎞、標高330~360mです。周辺山地から流入する裾花川や浅川などの中小河川の扇状地堆積物や、千曲川や犀川の氾濫原堆積物によって成り立っています。市域の最高地点は高妻山頂の2353mで、最も低い場所は豊野町浅野地区の327.4mとなっています。

 気候は中部高地型で、盆地地形のため寒暖の差が激しく夏は暑くて冬は寒い特徴がありますが、1月の平均最低気温は-4.1℃、8月の平均最高気温は31.0℃で、湿度も低いため過ごしやすい地域の一つです。年間の降水量は日本の中でも少ない方で、山間部では日本海側気候の影響もあり冬の積雪量は多くなりますが、市街地付近では約5~20cmの積雪が年に数回ある程度です。

 

 

 

【旧石器時代】(~約12000年前)

 長野市域では旧石器時代から私達の祖先の足跡が確認できます。飯綱高原にある上ケ屋遺跡からは約2万年前の石器が出土し、その製作技術的な特徴から東北地方から瀬戸内地域にかけての広範な交流が推定されています。

上ケ屋遺跡と飯縄山

         上ケ屋遺跡出土の石器      上ケ屋遺跡の石器

 

 

 

【縄文時代】(約12000年前~2300年前)

 縄文時代の遺跡は山間部で多く確認されており、戸隠の荷取洞窟遺跡からは最古となる草創期の土器が出土しています。中期から後期にかけての中条の宮遺跡からは、抜歯された人骨が埋葬された墓が見つかり、現在は公園として整備されています。

宮遺跡の抜歯人骨 近年では平野部でも縄文時代の遺跡が確認されるようになり、前期の松ノ木田遺跡からは装身具である玦(けつ)状耳飾が大量に出土しました。中期の檀田遺跡からは頭部を欠損しているものの市内最大となる有脚立体土偶が出土しています。また後期の吉田古屋敷遺跡からは4枚の敷板が想定できる敷石住居跡が発見されました。若穂保科の宮崎遺跡は中期から晩期にかけての多量の土器が出土しており、なかでも鹿の角で作った銛やサメの背骨で作った耳飾が注目されています。千曲川でサケ・マス漁を営み、海岸地域との交流も盛んであった生活の一端を読み取ることができます。

 

 

 

【弥生時代】(紀元前3世紀~3世紀中ごろ)水内坐の木製楯

 弥生時代には長野盆地にも稲作農耕が伝えられ、浅川扇状地や千曲川の自然堤防上に集落が広がりました。篠ノ井の塩崎遺跡群松節遺跡からは密集した木棺墓群が発見され、大陸からの渡来系弥生人の特徴をもつ人骨が埋葬されていました。

 箱清水式土器中期になると千曲川沿いに環濠で囲まれた巨大な集落が出現し、その典型例が松代町の松原遺跡です。およそ20haの範囲に2000軒以上の建物が推定され、多種多様で膨大な量の出土品から、北陸地方から関東地方に至る地域にまで影響をおよぼす東日本屈指の巨大集落であったことが推定されています。なかでも太型蛤刃石斧や中部高地型石戈などの磨製石器は長野盆地の特徴的な遺物となっています。

 箱清水式土器と呼ばれる後期の土器はベンガラで赤く塗られたものが多く、当時の長野盆地を「赤い土器のクニ」と形容する研究者もいます。篠ノ井遺跡群や小島柳原遺跡群では環濠集落が確認され、水内坐一元神社遺跡からは儀礼的な装飾が施された木製の盾が出土しました。

 

 

 

川柳将軍塚の鏡6面【古墳時代】(3世紀後半~7世紀)

 長野市内にある古墳の数はおよそ870基で、そのうち前方後円墳と前方後方墳は16基です。最も大きい古墳は篠ノ井にある全長93mの川柳将軍塚古墳で、本格的な発掘調査は行われていませんが、異体字日月銘内行花文鏡と呼ばれる中国製の前漢鏡など鏡6面と琴柱形石製品、勾玉やガラス玉などが出土品として残されています。若穂の和田東山3号墳からは未盗掘の竪穴式石室が発見されま史跡大室古墳群した。中期と考えられている篠ノ井の飯綱社古墳からは、日本に持ち込まれて間もない頃のきわめて初期段階の馬具が出土したと伝えられています。

 前期から中期にかけての古墳は山の上や尾根頂部に築かれましたが、中期以降は次第に山麓や谷筋に群集して造られるようになりました。約500基の古墳が密集する大室古墳群は、その多くが土の代わりに石を積み上げて造った積石塚であり、合掌形石室という特異な形状の埋葬施設も含めて、長野盆地の特徴となっています。

 これらの古墳を造った人々は、篠ノ井遺跡群や若穂の榎田遺跡がある千曲川の自然堤防上や本村東沖遺跡などの浅川扇状地上で、中核的な集落を営んでいたようです。炉からカマドへの転換も他地域に比して早い方で、新しい技術の導入に積極的であったと思われます。

 

 

 

【奈良・平安時代】(8世紀~12世紀)

南宮遺跡の空撮.JPG 近年の発掘調査においても確認されつつある、承和8年(841)の地震や仁和4年(888)の仁和の大洪水などの自然災害を乗り越え、奈良時代以降は長野盆地のいろいろな場所で集落が営まれ、平安時元善町遺跡の湖東式軒丸瓦代には水田等の土地開発も進んだようです。篠ノ井の塩崎遺跡群からは竪穴住居跡以外にも礎石建物跡や掘立柱建物跡が検出され、また「専司」と読むことができる刻書須恵器や硯なども出土しており、蹄脚硯が出土した県町遺跡とともに、古代の役所的な機能をもった集落である官衙の可能性が考えられています。

 オリンピックスタジアムの下からは平安時代の南宮遺跡が発見され、およそ100年間で約8haの範囲に1200軒を超える住居が造られた拠点的な集落であることがわかってきました。大型住居やオンドル状遺構、地鎮めの祭祀遺構などが検出され、火熨斗(ひのし)や八稜鏡、銅椀や陶印などのさまざまな遺物が出土しています。

 善光寺門前の元善町遺跡からは多くの古代瓦とともに滋賀県東部と関係がある湖東式軒丸瓦が出土しました。善光寺の創建時期に関してはこれまでも多くの議論がありましたが、古代瓦の出土量からしても瓦を葺いた寺院が古代に存在した可能性は高いといえます。

 

 

 

 

【鎌倉~江戸時代】(13世紀~19世紀中ごろ)

 治承3年(1179)に焼失した善光寺は、鎌倉幕府の保護政策により再建が行われ善光寺信仰が全国に広がりました。室町時代になると善光寺信仰と戸隠・飯縄信仰がセットになり多くの参詣者を集めました。いわゆる戦国時代には北八幡原古戦場信濃全体が領地争いの場となり、甲斐の武田信玄が北信濃攻略の前進基地として海津城(松代城)を築き、村上氏など地元の領主は上杉謙信に助けを求めました。武田と上杉による復元された松代城跡川中島の戦いは複数回におよびますが、なかでも永禄4年(1561)の合戦は、両軍合わせて7000人以上の戦死者を出した激戦として有名です。

 江戸時代の元和8年(1622)に真田信之が上田から移封されて以降、松代は真田十万石松代藩の政治的かつ経済的な中心地となります。享保2年(1717)に発生した二度の大火によって多くの記録が失われてしまいましたが、城下町では上水木樋や泉水路などの水路網が発達し、地方中核都市として発展しました。弘化4年(1847)に発生した善光寺地震はマグニチュード7.4の典型的な内陸直下型地震で、地震動に加え山崩れや火災、洪水などの二次・三次被害も含めて8500人以上の死者が出るなど、長野盆地は大きな被害を受けました。

 

 

 

【明治時代以降】(西暦1868年~)

 明治維新とともに明治4年(1871)に長野村に県庁が置かれて県都となり、明治30年(1897)に市制を施行して、県内初の市として長野市が誕生しました。明治21年(1888)に直江津線長野駅が開業して以降、大正11年(1922)に河東鉄道、同長野市街地15年(1926)に長野電気鉄道が開業して鉄道網が整備されると、貨物輸送量の急速な増加によって商工業が活性化し、市街地の近代化が急速に進められました。

 太平洋戦争は長野盆地にも暗い影を落とし、昭和19年(1944)には松代の象山や舞鶴山などに大本営とその関連施設の地下壕掘削工事が軍部によって行われましたが、終戦により中止されました。昭和20年(1945)にはアメリカ軍による空襲があり、長野市内各地で死者や家屋焼失など大きな被害を受けました。

 戦後の混乱期を経て高度経済成長と共に長野市も大きく発展し、上信越自動車道と長野新幹線(現在の北陸新幹線)が開通し、平成10年(1998)には冬季オリンピック・パラリンピックが開催され、世界各地に向けて長野から情報が発信されました。

 

◆なぜ文化財を守るのか?

 みなさんはフグという魚を食べたことがありますか。食べたことがある人はそれがとても美味しい魚であることを知っていると思います。また、フグには毒があることを知っている人は多いと思います。フグを食べたことがない人でも、フグには毒があることは知っていますよね。きっと、テレビで見たり、本で読んだり、誰かに教えてもらったからです。では、その本を書いた人はどうやって知ったのでしょうか。そして教えてくれた誰かはどうやって知ったのでしょう。どんどん遡って、最初の人間はどうやって知ったのでしょうか。食べたら死んでしまうのに、どうやって知ることができたのでしょう。

  それは、大昔から連綿と続く、中毒死という多くの犠牲者と、おそらくその事故の関係者や目撃者、伝達者がいて、そうした個々の事例の積み重ねによって、人間がフグのどこに毒があるのかを正しく学習し、正しく伝えてきた結果なのです。そして、こうした人間の生きていく知恵を正しく伝えるための「形」、それが文化財なのです。

  今を生きていく私たちの参考として、また未来に生きる私たちの子孫のために、文化財を守り、歴史を正しく伝えていくことが大切なのです。

 

  平成24年6月

長野市教育委員会 文化財課

長野市埋蔵文化財センター   

RSS