さくまぞうざんたくあと
佐久間象山宅跡
- 指定区分
- 県指定記念物
- 地区
- 松代
- 所在
- 長野市松代町松代
- 年代
- 江戸時代後期
- 指定等年月日
- 昭和35年2月11日
- 地図
-
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- 解説
- 佐久間象山(1811~1864)の屋敷跡は、象山のふもと松代町有楽(うら)町にある。東隣には象山神社があり、この一角に「象山先生誕生地」の石標が建てられている。
878㎡の敷地跡には、わずかに当時をしのばせる古井戸が残るばかりだが、象山在世のころは、住宅のほかに藩主真田幸貫の休憩所、父神渓の槍・剣術道場、学問所、ガラス製造原土置場や長屋2棟があった。
象山は文化8年(1811)、この家に生まれ、天保10年(1839)の2度目の江戸留学まで29年間ここに住み、藩の青年たちに学問を教えて後進の指導に努めた。
象山の父は佐久間国善(一学また神渓とも号した)といい、五両五人扶持(70石相当)の家だったが、剣は卜伝(ぼくでん)流の達人であり、また、易学をもって知られた名門だった。
象山は天保4年(1833)、22歳で松代藩第1回の江戸留学生として佐藤一斎の門に学んだ。天保10年(1839)再び江戸にでて象山書院を開き、程朱(①ていしゅ)の正学を講義するとともに、開国論を唱え、砲術を研究する。
また、西洋科学を紹介し、勝海舟・吉田松陰・小林虎三郎らの門下生に近代的な兵学・戦法・築城などを教えた。
安政元年(1854)、吉田松陰の密航計画に連座して捕らえられ、蟄居(ちっきょ)9年間に及んだが、元治元年(1864)3月、徳川幕府の招きで上洛。開国・公武合体論を主張し、大いに画策したが、同年7月11日、京都三条木屋町で刺客の凶刃に倒れた。享年54歳。
のち明治22年に正四位を贈られている。
注①程朱(ていしゅ)・・・二程(宋の大儒家程顥(ていこう)と程頤(ていい)の兄弟)と朱子を合わせて程朱という。
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