まちやしきちてん
町屋敷地点
- 遺跡群
- 塩崎遺跡群
- 遺跡番号
- E-④
- 種別
- 集落跡
- 時代
- 弥生・古墳・奈良・平安
- 地区
- 篠ノ井
- 所在
- 塩崎(山崎・四之宮・角間・上町)
- 調査年度
- 1994
- 地図
-
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- 解説
- 長野盆地を北流する千曲川では、篠ノ井塩崎から篠ノ井横田にかけて大規模な自然堤防の発達と広い後背湿地の形成がみられます。自然堤防上には集落が展開し、後背湿地には水田が広がるという風景は、遺跡の発掘調査によって弥生時代以来現在まで続いていることがわかっています。居住域として利用された自然堤防上には、上流側から塩崎遺跡群・篠ノ井遺跡群・横田遺跡群と遺跡が切れ目なく濃密に連続していることが知られています。これらの遺跡群は自然堤防を開削して千曲川に流れ込む聖川と岡田川という2本の河川によって便宜的に分けられていて、上流側の聖川で塩崎遺跡群と篠ノ井遺跡群に、下流側の岡田川で篠ノ井遺跡群と横田遺跡群に区分されています。つまり、篠ノ井地区の自然堤防上に展開する遺跡のうち、聖川よりも南側の遺跡が「塩崎遺跡群」になります。
塩崎遺跡群では塩崎小学校の校舎改築(塩崎小学校地点)や市道越上町線道路改良(松節―小田井神社地点)などの事業に伴って古くから複数の地点で発掘調査が実施されてきました。このため発掘調査ごとのそれぞれの事業や調査地の地籍から地点名が付けられています。
塩崎遺跡群町屋敷地点は、町屋敷地籍で実施された塩崎児童館建設と宅地造成に伴う2件の発掘調査を指し示しています。
塩崎児童館は塩崎小学校の南側隣接地に建設が計画され、昭和58年(1983)10月11日から10月27日にかけて発掘調査が実施されました。竪穴住居跡9軒、土坑7基、方形周溝墓1基ほかが調査されました。竪穴住居と土坑は古墳時代後期から奈良・平安時代が主体となり、古代の集落が広がっていることがわかりました。方形周溝墓は古墳時代前期に属し、弥生時代かとみられる竪穴住居跡1軒や土坑もみつかっています。調査された遺構数は少ないですが、周囲に集落が展開しているとみられています。出土遺物としては金属製の丸鞆(まるとも)が1点出土していて、注目されます。
町屋敷宅地造成事業は塩崎児童館や旧塩崎保育園の南側に隣接した畑地で計画され、平成6年(1994)12月12日から12月26日にかけて発掘調査が実施されました。竪穴住居跡8軒、溝跡1条が発掘され、古墳時代後期から奈良・平安時代が主体となります。南北に細長い調査区内では、調査区のほぼ中央で確認された溝跡を境にして、北側にのみ竪穴住居が分布しています。溝の南側では遺構がほぼみられなくなることから、この溝が古墳時代後期から奈良・平安時代にかけての集落域の南端部に該当するとみられます。弥生時代後期に属する遺構は竪穴住居跡1軒が確認されています。残念ながら古墳時代後期から奈良・平安時代の竪穴住居群の下層(直下)から検出され、良好な状況では残っていませんでした。ただし、1軒とはいえ竪穴住居跡がみつかったことや遺構の数に比べて出土した弥生土器の量が少なくないことからは、弥生時代の集落も展開していましたが、古墳時代後期から平安時代の住居群が重なってしまったため、今ではわからなくなってしまったと考えることができます。出土遺物としては、塩崎児童館同様に金属製の帯金具の金具(丸鞆か?)が1点出土しています。
この町屋敷地点の北側に隣接し、校舎改築やプール改築などに伴い複数地点で発掘調査が実施されている塩崎小学校も町屋敷地籍内に所在します。「塩崎小学校地点」と別地点として区分されていますが、弥生時代中・後期から古墳時代前期の集落と墓、古墳時代後期から奈良・平安時代の集落と調査された内容は一致していて、同一の遺跡と捉えることができます。
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