しおざきいせきぐん
塩崎遺跡群
- 遺跡番号
- E-④
- 種別
- 集落跡
- 時代
- 弥生・古墳・奈良・平安
- 地区
- 篠ノ井
- 地図
-
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- 解説
- 長野市南部の篠ノ井地区には、約6kmにもわたる大規模な自然堤防が千曲川左岸に形成されています。この自然堤防上には弥生時代以降の集落遺跡が濃密に分布しており、自然堤防を横断する小河川によって塩崎遺跡群・篠ノ井遺跡群・横田遺跡群に大別されます。このうち、塩崎遺跡群はもっとも上流側にあり、千曲市稲荷山から聖川までの南北約2km、東西最大600mの範囲に展開します。
塩崎周辺の遺跡については、小島貞雄氏による松節遺跡での武器形青銅器の発見や、荒井籐四郎氏の伊勢宮遺跡採集資料が学界に紹介されたことなどにより、昭和30年代には広く認知されていました。とくに荒井氏の採集資料には縄文・弥生移行期の土器・石器が含まれ、北信濃における弥生文化導入期の重要資料として注目されるところとなりました。なお、この時点では採集地点ごとに遺跡名が付与されていましたが、各々を明瞭に区分することは困難で、本来的には共通の環境に立地した一連のものであることから、現在では「塩崎遺跡群」として把握されています。
塩崎遺跡群では、これまでに長野市教育委員会によって5地点8次の調査が実施されてきました。確認されるもっとも古い資料は、縄文時代晩期末の氷式土器ないしはその系譜をひく土器で、市道篠ノ井南253号線地点から比較的まとまって出土しています。それに続く弥生時代前期では、伊勢湾沿岸地域より運ばれた遠賀川式土器や水神平式土器が市道松節小田井神社線地点で出土しており、この頃に水稲耕作が導入され始めたことがうかがえます。塩崎遺跡群ではこの時期の遺構がまだ確認されていませんが、隣接する篠ノ井遺跡群では石囲炉や大型の壷を用いた再葬墓が検出されており、自然堤防上に集落の形成が進んでいることがわかります。
弥生時代中期前半では、竪穴住居跡と木棺墓が検出され、水稲耕作と居住域の開発が同時に本格化していくことがうかがえます。木棺墓は大陸から導入された新しい葬法でありますが、そこには屈肢葬などの在地的な要素も含まれており、この地域の弥生文化の生成を理解するうえで示唆的な資料といえます。また、松節地点で検出された木棺墓からは、副葬用の儀器といえる特殊な土器が一括して出土しています。弥生時代後期後半では、松節地点において竪穴住居跡が密集して検出され、大規模な集落が存在したと想定されています。ここは小島氏によって武器形青銅器が発見された地点でもあり、西日本的な祭器である武器形青銅器の存在は、この地域の弥生文化の発展が西日本との強いつながりによっていたことを物語っています。
古墳時代も集落は連続的に営まれるものの、やや散在的な様相を示します。奈良時代では塩崎小学校地点を中心に竪穴住居跡と掘立柱建物跡などが検出されています。この地点からは「専司」と刻書された須恵器2点が出土しており、役所ないしは役人に関係する施設が存在した可能性が指摘されています。平安時代の集落は塩崎遺跡群内の各地点で小規模な集落が存在するものの、いずれも9世紀代に盛期を迎え、以後は衰退します。
この文化財を見た人は、ほかにもこの文化財を見ています。
篠ノ井遺跡群 |
市道松節小田井神社線地点 |
松節遺跡 |
福土遺跡 |
塩崎小学校プール改築地点 |
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