遺跡・地点詳細

(けんたん)しゅようちほうどうながのうえだせんちてん

(県単)主要地方道長野上田線地点

遺構・遺物を検索する(別ウィンドウで開く)

遺跡群
篠ノ井遺跡群 
遺跡番号
E-⑤ 
種別
集落跡 
時代
縄文・弥生・古墳・奈良・平安・中世 
地区
篠ノ井 
所在
塩崎(東篠ノ井・上篠ノ井・庄ノ宮・平久保・山崎 
調査年度
1995~1999 
報告書
篠ノ井遺跡群(5)
参考資料
発掘された長野2007
地図

サイトが別ウィンドウで開きます。
「同意する」ボタンを押すと地図が表示されます。

 

解説
 長野盆地を北流する千曲川流域では、篠ノ井塩崎から篠ノ井横田にかけて大規模な自然堤防の発達と広い後背湿地の形成がみられます。自然堤防上には集落が展開し、後背湿地には水田が広がるという風景は、遺跡の発掘調査によって弥生時代以来現在まで続いていることがわかっています。
 居住域として利用された自然堤防上には、上流側から塩崎遺跡群・篠ノ井遺跡群・横田遺跡群と遺跡が切れ目なく濃密に連続していることが知られています。これらの遺跡群は自然堤防を開削して千曲川に流れ込む聖川と岡田川という2本の河川によって便宜的に分けられていて、上流側の聖川で塩崎遺跡群と篠ノ井遺跡群に、下流側の岡田川で篠ノ井遺跡群と横田遺跡群に区分されています。つまり、篠ノ井遺跡群は篠ノ井地区の自然堤防上に展開する遺跡のうち、聖川と岡田川に挟まれた区域の遺跡の総称となります。
 この篠ノ井遺跡群の範囲内に主要地方道長野上田線(県道77号線)のバイパスが新設されることとなりました。この新設道路建設に先立って実施した発掘調査に関し、起因事業の名称から「主要地方道長野上田線地点」と呼称しています。新設道路は篠ノ井橋の北橋詰から聖川まで、篠ノ井遺跡群の範囲を東から西へ横断するものとなり、全面が発掘調査の対象となりました。東西に延びる道路予定地は信越本線や南北方向の既設道路と交差しているため、この交差点をもって調査区を区分し、東側の篠ノ井橋北橋詰側を1区とし、聖川沿いの13区まで設定しています。
 発掘調査は平成7年(1995)4月に1区より着手し、平成18年(2005)3月に完了しました。調査された遺構は竪穴住居跡や掘立柱建物跡などの建物跡、土坑や小穴、溝などの生活関連遺構や土器棺墓や周溝墓(弥生時代)、古墳(古墳時代)、土壙墓(奈良~平安時代)などの埋葬遺構(墓)があります。出土遺物には弥生土器・土師器・須恵器・灰釉陶器・青磁・白磁などの土器・陶磁器類、硯、埴輪、甎仏、瓦、鉄製品、青銅製品、石製品、土製品、木製品、獣骨(馬骨・牛骨・鹿角)などがあり、弥生時代中期から平安時代にかけて途切れることなく、人々の営みの痕跡が確認されています。
 篠ノ井遺跡群の範囲内は現在では全体が平坦となっていますが、北陸新幹線やしなの鉄道の軌道を境に西側が高く、東側が低くなります。ちょうどこの段差の縁に沿って、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての円形周溝墓群が造られています。弥生時代後期から古墳時代中期にかけての遺構はいずれもこの段差の西側にのみ認められ、東側には古墳時代後期から奈良時代前半期にかけての集落の拡大が始まり、奈良時代後半期以降、本格的な集落が形成されたと考えられます。
 当地点で出土した遺物のうち、もっとも古い一群は弥生時代中期の土器となります。北関東地方の影響を受けたとみられる土器群で、前記した段差の直下より出土するなど、前後の時代とまったく連動しない特異なあり方をしています。弥生時代後期から古墳時代前期にかけては、西端部となる聖川に近い箇所に住居跡が集中し、東側の段差の縁に周溝墓群が列をなして造られていました。古墳時代中期には、西側微高地の中心付近に密集した集落域があり、弥生時代後期とは逆に西側の聖川沿いに円墳群による墓域が形成されていました。古墳時代後期、奈良時代、平安時代は調査区全体から住居跡などが確認されています。古墳時代後期は段差付近に住居跡が集中する傾向がみられますが、奈良時代や平安時代は調査区全域に広がっていて、中心部が見出しづらくなります。
 このほか、調査区の各地点からは強い地震によって引き起こされる液状化現象による噴砂が確認されました。この噴砂が吹き出した面(地震時の地表面)と遺構の関係をみると、平安時代の9世紀前半に非常に大きな地震があったようです。さらに9世紀後半となる仁和4年(888)に発生した「仁和の大洪水」では、平安時代の篠ノ井ムラを洪水が襲ったようで、東端部となる1区では洪水砂が1m以上堆積していました。平安時代・9世紀の篠ノ井遺跡群はまさに災害の世紀であったようです。 

この文化財を見た人は、ほかにもこの文化財を見ています。

篠ノ井遺跡群

(国補)主要地方道長野上田線地点

福土遺跡

豊野一里塚

旭山城跡