しののいいせきぐん
篠ノ井遺跡群
- 遺跡番号
- E-⑤
- 種別
- 集落跡
- 時代
- 縄文・弥生・古墳・奈良・平安・中世
- 地区
- 篠ノ井
- 主な遺跡・地点
- 大規模自転車道地点
- 市道山崎唐猫線地点
- 中部電力北信坂城線鉄塔地点
- 市営塩崎体育館地点
- 聖川堤防地点
- 市道塩崎中央線地点
- (県単)主要地方道長野上田線地点
- (国補)主要地方道長野上田線地点
- 地図
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- 解説
- 篠ノ井遺跡群は長野市南部の篠ノ井地区に所在し、千曲市左岸に約6kmにわたって形成された大規模な自然堤防上に立地します。この自然堤防上には各時期の集落遺跡が濃密に分布しており、自然堤防を横断する小河川によって塩崎遺跡群・篠ノ井遺跡群・横田遺跡群と便宜的に大別されています。このうち、篠ノ井遺跡群は聖川と岡田川によって区切られた東西約2 km、南北最大500mの範囲に展開しています。
これまでに、長野市教育委員会によって8地点の発掘調査が実施されたほか、高速道と新幹線の建設工事に伴って財団法人長野県埋蔵文化財センターによる大規模な発掘調査が実施されています。このうち、聖川堤防地点では縄文時代晩期末から弥生時代前期の土器が比較的多く出土し、石囲炉がいくつか検出され、又塩崎体育館地点では大型の壺を用いた土器棺墓も検出されており、この時期に居住域や墓域としての利用が開始されたと考えられています。弥生時代前期になると、聖川堤防地点や高速道路地点などで住居跡が検出されるようになります。この時期、隣接する塩崎遺跡群松節小田井神社線地点では住居跡とともに木棺墓群が発見されており、広大な自然堤防の各所に集落が拡大・定着する様相が見て取れます。
弥生時代後期後半になると、高速道地点において大規模な集落が形成され、集落のまわりを幅2m、深さ2mの堀で区画する環濠集落が成立し、古墳時代前期後半まで継続します。古墳時代前期前半には一度住居数が減少するものの、前期後半になると再び急増し、総計では1000軒を超える住居が存在したと予想されています。古墳時代前期後半には篠ノ井石川の尾根上に川柳将軍塚古墳が築造され、集落の再形成はこの首長の存在とかかわるものと考えられています。この環濠集落の外側には、弥生時代後期の円形周溝墓と、古墳時代前期の方形周溝墓もしくは前方後方形周溝墓がまとまって検出されており、集落域と墓域の位置関係や形成過程が明確に把握されました。円形周溝墓から大型の前方後方形周溝墓へという変遷が明らかとなり、集落レベルでも有力者が台頭し社会構造が変化する様子が端的に示されることとなりました。
また、高速道地点から1kmほど離れた新幹線地点では、弥生時代後期後半の円形周溝墓が55基密集して検出され、未調査範囲を含めると600基以上の周溝墓が存在したことが予想されています。これほどの墓域が整然と形成されていたことは、この時期の篠ノ井遺跡群がきわめて安定しており、継続性のある営みがあったことをうかがわせます。なお、新幹線地点においても造墓集団と目される集落が隣接して発見されていますが、環濠は検出されていません。同時期の高速道地点とは様相が異なっており、その差が何に起因するのか、注目されるところであります。
古墳時代中期になると県道長野上田線地点で密集した集落域が形成されます。調査では滑石製臼玉の製作跡や小規模な鍛冶跡が確認されており、各種手工業生産が集落内部で行われていたことがわかります。古墳時代後期になると各地点で住居跡が確認されており、集落域が拡大される一方、住居同士の重複状況は減少し、散発的な住居分布となります。このことは、屋敷地などの成立と関連した動向と把握されます。加えて、7世紀後半頃のものと推定される中空円面硯の存在、市内でも突出して多い帯金具や皇朝十二銭の出土は、この地に官衙的性格をもった施設が存在したことを強く想起され、特筆すべき遺物として、奈良県唐招提寺戒壇院出土のものと同笵と考えられる甎仏が2点発見されており、地方における仏教の導入や、それを介した中央との結びつきなど、多くの課題を投げかけています。