千曲川を望む縄文集落 ― 宮崎遺跡

長野市教育委員会 学芸員

塚原 秀之


 長野市若穂保科にある宮崎遺跡は、縄文時代中期後半から晩期に営まれた縄文集落です。昭和60・62年に市教育委員会によって発掘調査が実施され、住居や墓地などが発見されたほか、多量の土器や石器、様々な装飾品が出土し、県内有数の遺跡であることが判明しました。その後も立命館大学による継続的な調査が行われ、貴重な発見が相次いでいます。

 

 宮崎遺跡が立地する保科扇状地は、保科川と赤野田川によってつくられた複合扇状地で、北西に向かって広がった扇状地の先には、千曲川と犀川の合流部を望むことができます。千曲川がもたらす多様で豊かな環境は、水辺にすむ生物を育み、そしてそれらは縄文人にとっての重要な食料資源となっていました。特に、現在では目にすることが適わなくなってしまいましたが、秋から冬にかけては千曲川とその支流にサケやマスの大群が遡上し、縄文人の食卓を賑したことでしょう。実際に立命館大学の調査ではサケ科の椎骨が発見されており、宮崎ムラの人々も千曲川からの恵みを食していたことがわかります。
宮崎遺跡で見つかった縄文時代の竪穴住居址

 狩猟採集生活を基本とした縄文時代ですが、一方で有用な植物を選択的に保護するなどしてムラ周辺での生産性を高め、より定住性の強い社会となっていたと考えられます。しかし、生活の全てがムラの周辺で完結していたわけではなく、他の地域とも活発に交流をもっていたことが宮崎遺跡の資料からもわかります。

 その1つの例が黒曜石です。黒曜石は石鏃などを作るためよく利用された石材ですが、良質なものは国内でも産地が限定されます。その中でも長野県内には霧ヶ峰や和田峠といった本州随一の産地があり、前期以降は100km以上離れた地域にまで流通する広域ネットワークが形成されていたと考えられています。おそらく、宮崎遺跡へもこれらのネットワークを介して黒曜石がもたらされていたのでしょう。1号住居址の床下からは、黒曜石の石塊10点を隠すように納めた深鉢が見つかっており、宮崎ムラの人々が遠方より入手した黒曜石を大切に扱っていた様子が窺えます。同じように、宮崎遺跡の周辺では手に入らない、ヒスイ製垂飾や蛇紋岩製磨製石斧、サメの椎骨製耳飾などが出土しており、それぞれ他のムラとの交流によってもたらされたものと考えられます。


黒曜石の石塊が納められていた深鉢

 宮崎遺跡から出土した遺物のうち、特に目を惹くものに土製耳飾が挙げられます。土製耳飾は縄文時代の後期から晩期にかけて盛んに作られたピアスで、宮崎遺跡からは市教委調査分だけでも130点以上の土製耳飾が出土しています。中には透かし彫りのような精緻なデザインが施されたものや、赤色顔料によって彩色されているものもあり、縄文人の美意識の高さを伝えてくれます。、市教委調査区3号石棺墓では、埋葬された人骨の頭部に接して土製耳飾が出土し、土製耳飾の着装例として全国的にみても貴重な発見となりました。
(平成24年5月)

宮崎遺跡より出土した耳飾
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