遺跡・地点詳細

かわだしやかたあと

川田氏館跡

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遺跡群
川田条里遺跡 
遺跡番号
G-205 
種別
城館跡 
時代
中世 
地区
若穂 
所在
若穂川田(町川田) 
調査年度
1999 
報告書
川田氏館跡・岩崎遺跡Ⅱ
地図

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解説
 川田氏館跡は、川田保育園改築に伴い、平成11(1999)年に発掘調査が行われました。保育園以前は川田村役場があった場所で、西隣には川田小学校や領家皇太神社があります。周辺は圃場整備が行われ、現在は水田が広がっています。周囲の元来の地形は、千曲川の旧河道である後背湿地で、現在でも千曲川と犀川の合流する「川合」という地名がすぐ近くにあり、中世にはさらに裾花川も合流する網の目のように川が流れる場所でした。遺跡のある場所はその中で少し高い微高地で、東約600mには保基谷岳を水源とする保科川、西約220mには赤野田川が流れ、千曲川へと注いでいます。遺跡周辺の山には古城山城跡・霞台城跡・前山城跡・和田東山城跡などの山城があります。また遺跡の東約160mには、県埋蔵文化財センターが平成1・2(1989・1990)年に行った上信越自動車道建設に伴う発掘調査で、中世の条里跡が発見されています。中世の遺跡周辺は高井郡に含まれ、保科御厨という伊勢神宮の荘園でした。
 川田氏館跡の発掘調査では掘立柱建物跡が8棟、貼床状遺構2棟や土坑などが見つかりました。周辺では中世の遺物や遺構は発見されていないのですが、調査区東には堀跡も見つかっており、また中世の館で出土することが多いカワラケが出土したことから館跡と判断されました。遺物の年代から、遺跡は15世紀中頃~後半、室町時代のものと考えられます。その頃に川田周辺を支配していたとされる川田氏の館と想定されています。
 川田氏は保科氏とともに文書等に見られ、初めて登場するのは、京の六条八幡宮を造営する費用負担を記した建治元(1275)年「六条八幡宮造営注文」で、「河田次郎跡 三貫」とあります。このほか康正2(1456)年「諏訪御符礼之古書」に頭役として費用を負担しており、「河田・保科両人」と見えます。
 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』文治3(1187)年2月25日条に、鎌倉の御家人三浦義澄邸で源頼朝臨席の酒宴において、保科宿の遊女長者が宴曲を歌ったという記事が見られます。千曲川から保科川に沿って遡り、上野国へと抜け、鎌倉に向かう大笹道があり、保科宿はこの街道により繁栄したと考えられています。この街道沿いには、保科氏館跡や清水寺などが分布し、川田氏館跡もこのような中世信濃の交通の要衝に位置していました。
 

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