はぎのじょうあと
萩野城跡
- 指定区分
- 市指定記念物
- 地区
- 七二会・中条
- 所在
- 長野市七二会丁・中条日下野
- 年代
- 戦国時代
- 指定等年月日
- 平成5年6月10日
- 地図
-
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- 解説
- 萩野城跡は、七二会の西北、知足院と中条臥雲院との中間、標高1176m(西嶺)及び1184m(東嶺)の山頂一帯にある山城で、山城としては高所にあって県内でも、これに匹敵する高所の山城はあまり見ない。
その構造として、山頂は二つの嶺に分かれている。西嶺が広く、その山頂を本郭とし、その西を二の郭とする。
本郭は東西34m、南北17mの不整楕円形をなし、本郭と二の郭との間に上幅7m、下幅1.5mの堀切がある。二の郭はこの城の中心で東西70m、南北17mの長方形をなす。二の郭の周囲には腰郭(一部は通路)があり、西端には二段の郭があるが、堀切はなく防備の施設に乏しい。東嶺にある脇郭は南北20m、東西10mの楕円形である。
このように山城としての構造も甚だ単純で、戦国期の山城と縄張りを異にしている。
築城年代は明らかではないが、戦国期の山城に先行するものと見ることもできそうである。
永禄2年(1559)2月に臥雲院住持南室正頓の筆写した「臥雲院縁起」には、建久8年(1197)に源頼朝が善光寺参拝の砌、臥雲院に参拝し、寺領80貫を寄付し寺領の境を決めたその境は今も変わらず、その東境は萩野城櫓岑(やぐらみね)であったと記されている(信濃史料17-494)。縁起を全面的に信用することはできないが、戦国期に「萩野城櫓岑」と呼ばれる場所があったことは確かである。中世の山城を知る上で貴重な史跡である。