遺跡・地点詳細

まつばらいせき

松原遺跡

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遺跡番号
F-026 
種別
集落跡 
時代
縄文・弥生・古墳・奈良・平安・中世 
地区
松代 
所在
松代町東寺尾 松原西・松原東 
調査年度
1990
1990~1991
1990~1992
1991
1992~1993
1994
1996~1997
2013
2014
2016
2019
2021 
報告書
松原遺跡
松原遺跡Ⅱ
松原遺跡Ⅲ
松原遺跡Ⅳ
松原遺跡Ⅴ
松原遺跡(6)
参考資料
平成17年度市内遺跡の発掘調査
発掘された長野2013
よみがえる原始・古代の吉田
長野の歴史を掘る 2016
地図

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解説
 松原遺跡は長野盆地南東部の松代町東寺尾に位置し、千曲川とその支流である蛭川によって形成された自然堤防上に立地します。
平成元年(1989)より上信越自動車道建設に伴う発掘調査が財団法人長野県埋蔵文化財センターにより実施され(高速道地点)、縄文時代から中世に至る各時代の包含層が千曲川の洪水堆積層を挟んで存在することが判明しました。また、周辺では長野市教育委員会によって5地点が調査され、集落の広がりや変遷が明らかにされています。

 縄文時代の集落は高速道地点で地表下4~5mから発見されました。それまで、長野盆地における縄文遺跡は山間地や扇状地上にしか確認されておらず、松原遺跡の縄文集落の発見は長野盆地における縄文集落の立地や生業等に再検討を促す重要な契機となりました。住居跡が確認されたのは前期中葉から後葉、前期末葉から中期初頭、中期末葉から後期前葉の各時期で、地点と面を違えて検出されています。このうち、中期初頭の集落では環状に住居跡が並ぶことが確認されたほか、中期末葉から後期前葉では空間を区画するかのような杭列状遺構が確認されており、集落構造の変遷として注目されます。中期初頭では玦状(けつじょう)耳飾や「の」字状垂飾(たれかざり)などの石製装飾品が発見されています。

 弥生時代では、中期後葉と後期後半を中心に集落が形成されます。特に中期後葉は、長野盆地における拠点的集落の様相を呈しており、幅4mを超える断面V字形の溝をはじめ、大小の溝や自然地形によって空間を区画する環濠集落が出現します。この時期の住居数は高速道地点だけでも竪穴住居跡と平地式住居跡を合わせて550軒以上が確認されており、未調査範囲を含めると2000軒を超える住居が存在したと想定されています。ところが、中期後葉に環濠をもち拠点集落化した松原遺跡も、中期終末になると環濠は埋没・窪地化して役割を果たさなくなり、集落規模は著しく縮小、ついに後期中葉には集落は一旦途絶えてしまいます。その後、後期後半に再び集落が形成されますが、限られた空間に小規模な集落が営まれ、短期間のうちに他所へ移動してしまいます。
弥生時代の松原遺跡からは、大量の土器群とともに石器、骨角牙製品、木製品、鉄器など多様で豊富な遺物が発見されました。このうち、儀礼行為に伴うとされる人面付土器が5点出土しており、農耕社会確立期の人々の精神面の一端を示しています。また、祭祀具である磨製石剣(ませいせっけん)や磨製石戈(ませいせっか)なども出土し、中野市柳沢遺跡出土の銅戈(どうか)を代表例とする武器形祭器を用いた西日本的な祭祀が、長野盆地に導入されていたことを示しています。

 古墳時代では前期に短期的な集落が形成され、後期には金井山山麓に松原古墳群4基が築造されます。7世紀以降は12世紀まで集落が継続し、10世紀には精錬鍛冶が、11世紀には仏具の鋳造が村落内で行われていたことが明らかとなりました。また、官衙遺跡等から出土の多い皇朝十二銭や腰帯具、鉄製の海老錠、鹿角製サイコロなどが出土していることから、古代埴科郡英多郷との関連が注目されます。中世では井戸跡や溝跡など日常生活に関連する遺構のほか、金井山山麓斜面に火葬墓や五輪塔が発見されています。
 

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