おおじづかこふん
王子塚古墳
- 遺跡群
- 和田塚本遺跡群
- 遺跡番号
- G-104
- 種別
- 古墳
- 時代
- 古墳
- 地区
- 若穂
- 所在
- 若穂川田(塚本)
- 地図
-
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- 解説
- 王子塚古墳は若穂川田に所在し、保科川が形成する扇状地の扇端部に位置しています。同じ扇状地の扇央部には積石塚古墳群として著名な長原古墳群が分布していますが、本墳と長原古墳群との間には古墳が分布しない空白地域が広がることから、単独立地と捉えることができます。
大正15年には長野県によって史跡名勝天然記念物に関する現地調査の報告がなされ、南東側に短い前方部を有した前方後円墳の可能性が指摘されました。昭和56年に刊行された『長野県史』遺跡地名表には、直径22.5m・高さ3.9mを測る円墳で、葺石を備え、土師器が出土したと記載されています。このように本墳は発掘調査こそ実施されていませんが、現地調査(踏査)は古くから行われ、規模の大きな古墳として注意が払われてきました。
現在、墳丘は35×24mほどの北東-南西方向に主軸がある不整楕円形として残存しています。墳丘北側は大正15年の報告で指摘されているとおり、地蔵庵を建立する際に削られています。また、南東側に存在が指摘された前方部は現在認めることはできません。墳丘が細長く延びる南西方向に前方部を想定することができますが、くびれ部が明瞭でないことを考慮すると円墳と捉えておくことが妥当と考えられます。
墳丘の形や規模などについては、墳丘測量や発掘等の調査によって確定しなければなりませんが、直径20mを超える大型円墳と推定されること、周辺に他の古墳が見られない単独立地であること、葺石を備えるとされていることなどからは、古墳時代中期(概ね5世紀代)に築造されたと古墳と考えることができます。これまでのところ、保科扇状地では大半の古墳が古墳時代後期(6~7世紀)に築造されたと考えられていますので、これらに先行する大型古墳が存在したことになり、本墳の持つ歴史的意義は決して小さくありません。
また、墳丘の頂部には南北朝時代後期の造立と推定され、長野市指定文化財となっている「石造宝篋印塔」が設置されています。この「石造宝篋印塔」については、別頁に解説がありますので、ご参照ください。
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