指定文化財詳細

ながのしとがくしでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく

長野市戸隠伝統的建造物群保存地区

地区
戸隠 
所在
長野市戸隠字宝光社の全域並びに字中社、字宝光社東、字宝光社西、字堂前林、字向林、字東谷及び字上泡原の各一部 
年代
江戸時代から昭和30年代 
指定等年月日
平成28年8月5日

 

解説
 長野市戸隠伝統的建造物群保存地区(以下「保存地区」)は、戸隠中社及び宝光社の宿坊群を中心とした門前町で、江戸時代の地割が良く保たれ、戸隠信仰のもと参詣者を受け入れるため大規模化した宿坊が、社殿や在家の住宅、石垣等と一体となって良好な歴史的風致を形成しています。
 長野市教育委員会では、平成28年8月5日に保存地区及び保存計画を決定し、平成29年2月23日に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されました。長野市では初めての選定であり、宿坊群としての選定は全国初となります。

 長野市戸隠伝統的建造物群保存地区(以下「保存地区」)は、戸隠連峰や飯縄山が連なる長野市北西部の山岳地帯に位置します。全域が標高1,000メートルを超える高所にあり、年間を通じて気温が低く、冬季の積雪は2メートルを越える豪雪地帯にあたります。また、一帯は妙高戸隠連山国立公園にも指定され、豊かな自然環境が保全されています。
 長野盆地へ流入する裾花川等の水源域でもある当地は、古くから水神や農業神として信仰を集めており、平安中期には修験道の一大霊場として全国に知れ渡るようになります。それとともに、現在の戸隠神社の前身である神仏習合寺院「戸隠山顕光寺」が成立します。
 鎌倉後期までには、奥院・中院・宝光院が整備され、各院周辺には修験者である衆徒の僧坊が構えられました。戦国期になると武田信玄と上杉謙信による戦乱に巻き込まれて一時衰退しますが、その後、上杉景勝によって再興されると、江戸時代には徳川家康から朱印地1,000石が与えられ、信濃を代表する天台宗寺院として隆盛しました。
 江戸時代、戸隠山顕光寺に所属した衆徒たちは「御師」として積極的な布教活動を行い、信濃、越後を中心に江戸、東北、近畿にいたる各地に「戸隠講」が組織されました。戸隠講の講員は、毎年、戸隠からやってくる来る衆徒(御師)からお札などを受け取るとともに、自らも戸隠へ参詣しました。
 中院と宝光院の参道沿いには、戸隠講を中心とした多くの参詣者を宿泊させるため、衆徒が雄大豪壮な宿坊を構えることとなり、また、宿坊群の外側には、集落の消費活動を支えた在家と呼ばれる農民や職人等の屋敷が拡がって門前町が形成されました。
 明治維新の神仏分離政策を受け、戸隠山顕光寺は戸隠神社へと姿を変えましたが、庶民と強く結びついた戸隠講はその後も存続し、江戸時代から続く信仰集落として、現在まで宿坊群や門前町の町並みが継承されることとなりました。

 保存地区は、中社地区と宝光社地区の2つの集落を中心としており、両地区は善光寺から戸隠神社奥社までつながる「戸隠道」によって結ばれています。中社地区、宝光社地区とも、戸隠高原の南向き斜面地に拡がり、戸隠神社の社殿を基点として南北に延びる「大門通り」と東西に延びる「横大門通り」によって基本的な町割りがつくられています。
 屋敷地は斜面地に石垣等を築いて雛壇状に造成されており、敷地境にはイチイ等の生垣が設けられ、江戸中期から昭和30年代までに建てられた伝統的建造物と一体となって歴史的風致を形成しています。
伝統的建造物の主屋は、平屋建または二階建、寄棟造、茅葺、平入を基本としています。豪雪地であることを反映し、雪対策として軒をせがい造で深くとり、床下の湿気を逃がすために床を高く張っています。
 なかでも、宿坊は客殿部と庫裏部からなり、客殿部には神殿と広間が置かれ、正面には向拝を備えています。また、周囲には観賞用の庭園も造られ、宿坊建築としての特徴がよく現れています。