遺跡群詳細

いしかわじょうりいせき

石川条里遺跡

遺跡番号
E-① 
種別
生産地 
時代
弥生・古墳・奈良・平安・中世・近世・近代 
地区
篠ノ井 
主な遺跡・地点
川柳地区団体営圃場整備地点
平久保地区団体営圃場整備地点
篠ノ井西部地区県営圃場整備地点
長野南消防署塩崎分署地点
篠ノ井農免バイパス地点
北野土地区画整理地点
県営みこと川団地地点
市道篠ノ井南64号線地点
灰塚団地造成地点
特別養護老人ホーム桜荘地点
地図

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解説
 石川条里遺跡は長野市篠ノ井に所在する水田遺構を中心とした生産遺跡です。長野盆地南部の千曲川左岸に発達した後背湿地に立地し、流路に沿って南西から北東へ帯状に広がる塩崎・石川・二ツ柳の水田地帯全域が遺跡として把握されています。遺跡名の「条里」とは奈良~平安時代の土地区画である条里地割を指し、現代の水田区画に見られる条里地割の痕跡を「条里遺構」と呼んだことから、かつては「石川条里遺構遺跡」・「石川条里的遺構」などの遺跡名が使われていました。昭和57年(1982)以来、長野市教育委員会や長野県埋蔵文化財センターによる発掘調査が各地で進められています。
 発掘調査では、遺跡名の由来となった古代の条里水田を含め、弥生時代から近世までの水田遺構が検出されました。各時期の水田の特徴は次のようにまとめられます。
【弥生時代中期前半】 低湿地の一部を利用した小規模な水田が営まれていたことが土壌の分析から判明しています。耕作にともなう明確な遺構が見つかっていない点や、周辺の集落遺跡で石庖丁以外の耕作具が出土していない点から、耕作技術が未成熟な段階だったと考えられます。
【弥生時代中期後半~古墳時代前期前半】 弥生時代中期後半の水田では、不明瞭な区画ながら部分的に杭列や畦畔(水田を区画する土手)が検出されました。水田層からは収穫具の石庖丁が出土しています。これに続く弥生時代後期~古墳時代前期前半は、弥生時代中期後半の水田形態を踏襲しながら水田域を拡大させたとみられ、自然地形に沿って不定形に区画された小規模水田が確認されています。古墳時代の溝の中からは鍬(くわ)・鋤(すき)など多数の木製農具や土器が出土しており、経営規模の大きさがうかがえます。
【古墳時代前期後半~中期前半】 大きな区画を行う畦畔が検出されたのみで水田形態はわかっていませんが、溝の要所を杭や横木で補強した大規模灌漑施設をともなうようになります。農業技術の革新を背景に、それまで低湿地に限られていた水田域が丘陵や微高地の縁辺にも拡大しました。同時期に営まれた川田条里遺跡の水田を参考にすると、大区画の内部には企画化された極小区画水田が営まれたものと考えられます。この後、古墳時代後期から奈良時代にも水田耕作は続いていたと思われますが、遺構としては検出されていません。
【平安時代】 古記録にある仁和4年(888)の大洪水で埋没した条里水田が多くの調査地点で確認されています。東西南北に延びる畦畔によって区画され、幅1.5mの大畦畔を結ぶことで、広範囲にわたる1町(約109m)四方の条里地割が復原されています。氾濫砂で厚く覆われていたため当時の水田面が良好に残されており、人や農耕牛の足跡や洪水で流された表層粘土の塊などがしばしば検出されています。
【中世~近世】 局地的に検出され、鋤先痕や稲株痕、暗渠など、耕作活動にともなうさまざまな痕跡・遺構が見つかっています。
複数の時期にわたる水田が重層的に見つかったことは、土地区画の変遷や農業技術の変化を知るうえでたいへん貴重な成果と言えるでしょう。
 さらに注目すべき成果として、水田遺構のある低湿地より標高の高い微高地上で古墳時代の特殊遺構群が見つかったことが挙げられます。特殊遺構群は、遺跡西部に位置する100mほど離れた二つの調査地点で検出されました。一つは、長野自動車道建設にともなう調査で見つかった前期後半の「大溝区画特殊遺構群」です。大溝による方形区画の内側から、土坑・井戸跡・柱穴跡が検出されました。土坑の多くは焼土や炭で覆われており、簡易な建物が使用後に廃棄され、意図的に燃やされたものと考えられています。遺物は、小型器種を主体とした土師器が溝の内外から大量に出土したほか、銅鏡・車輪石・石釧(いしくしろ)・管玉・勾玉が破砕・投棄された状態で溝の中から見つかりました。また、鍛冶に使われるフイゴの羽口や鹿角製未成品が区画内で出土しており、なんらかの生産活動が行われていたこともわかっています。もう一つは、篠ノ井西部地区県営圃場整備地点で見つかった中期前半の「栟下居住域遺構」です。微高地から低湿地にいたる斜面を葺石状に覆った集石遺構が検出され、これに隣接する斜面からは廃棄された多量の土器・木製品・石釧が出土しました。全国的に例がない遺構でありその評価は必ずしも定まっていませんが、一般的に古墳に副葬される鏡や石製装身具が破壊・投棄されていることや、北側の山上にある川柳将軍塚古墳とこれに後続する前方後円墳と時期が重なることから、時期により立地を変えながら古墳築造にかかわる祭祀行為を行っていたものと予想されています。

【参考文献】
(財)長野県埋蔵文化財センター『中央自動車道長野線埋蔵文化財発掘調査報告書15―長野市内その3― 石川条里遺跡』(1997)